第3日目 2006.3.6(月) 小雨のち晴れのち雨 | ||||||||||||||||||||
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今日はいよいよ遍路ころがしといわれる焼山寺。 旅館吉野をスタートして藤井寺正面の左手から遍路道に入り、一本杉庵までは8.8Km、約3時間ドンドン登る。 柳水庵では新しい遍路小屋が造られていて、若い女遍路二人が休んでいた。 声をかけると「昨夜泊めてもらったが気持ちのよい小屋なのでもう一泊する」という。 一本杉庵から焼山寺まで約4.1km、遅くとも11:30頃には焼山寺に到着の予定でいた。 遍路道を下っていくと車道に出る。どこで間違えたのだろう。 おかしい、おかしい、と思いながら車道を下ったしまった。 尋ねる人もなく、「なべいわ」の手前でまた車道を引き返す。 遍路道と車道の交差したところを右手の遍路道を行かねばならなかった。まちがった!! そこからまた登り道。 焼山寺に着いたのは1時間半遅れの13:00。ガックリ。肉体的にも疲れが出たが、精神的ショックの方がつらい。 「遍路ころがし」とは急坂道とのことだけでなく、こういった広い意味での難所ということだろう。 杖杉庵=むかし、むかし。 今から1200年ほど前のこと。 伊予の国荏原の庄(現在の愛媛県松山市近郊)に衛門三郎という強欲な長者がおったそうな。 ある日の事、門前に薄汚い僧衣を纏った一人のお坊さんが托鉢にやって来ましたが、 三郎は強欲な人間でしたので少しの金を出すのをも惜しんでお布施をしませんでした。 そのお坊さんは あくる日も、そしてその次の日もやって来ました。 毎日やって来るお坊さんを見て三郎は激怒しお坊さんの持っていた托鉢用の鉄鉢を奪い取り 地面に叩きつけました。鉄鉢は八つに割れ飛び散りました。 その次の日から、衛門三郎の悲劇が始りました。 8人いた子供たちが 流行り病の為に毎日一人ずつ死んで逝ったのです。 三郎は深く悲しみこれはあのお坊さんに、お布施もせずに鉄鉢を取りあげ 地面に叩きつけて割ってしまったその罰が当たったと深く反省をし、 仏さまに許しを請うために8人の子供達の位牌を背中に背負い、 あの時のお坊さんを求めて四国を歩き出しました。 その当時の四国の道は険しい山あり 渡るのに苦労する谷ありで、 その旅は決して楽なものではありませんでした。 三郎は歩きながら8人の子供達の菩提を弔い、今まで犯してきた数々の罪を詫びました。 それでも あのお坊さんに逢う事は出来ませんでした。 歩いても歩いても逢う事は出来ませんでした。 ある日の事、三郎に最後の日がやってきました。 阿波の国(徳島県)の12番札所の山中【焼山寺山】に於いて息を引き取る寸前の三郎の前に、 眩いばかりに光り輝くあのお坊さんが忽然と現れ三郎の手を握り 『衛門三郎よ おまえの罪は全て許された。安心して極楽浄土へ行くが良い』 と言って三郎の手に《衛門三郎再来》と書いた小さな石を握らせてくれました。 三郎は自分の罪が仏さまに許されたと知って喜びの涙を流しながら息を引きとりました。 それからしばらく時が流れたある日、伊予の国の豪族河野家待望の男の子が生まれました。 しかし生まれたばかりのその男の子は左の手を開こうとはしない。親が開こうとしても開けない。 困り果てた両親はお寺でご祈祷をしてもらう事にしてその子を連れて安養寺に出かけました。 安養寺でご祈祷を済ませると男の子が握っていた手をパッと開き、 その手の中から《衛門三郎再来》と書かれた あの石が出てきました。 喜んだ両親は安養寺に多額の寄進をして河野家の菩提寺と定めました。 後になって衛門三郎再来と書かれたその石を安養寺に納めた事から、 いつしか石手寺と呼ばれるようになりました。 焼山寺から杖杉庵を通り、道を間違え後戻りしたなべいわ(前回泊まった所)を通り過ぎて 植村旅館までダラダラと雨の中を3時間つらかった。 植村旅館では3月までは現役という岡山の高尾氏、奈良の松田氏と一緒になった。 高尾氏は各寺の地理とかいわれ、近辺の見所等にとても詳しかった。 奈良の松田氏は亡くなったお母さんの散骨を金剛福寺のある足摺岬でするんだという。 |
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第4日目 2006.3.7(火) 晴れ | |||||||||||||||||||
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【初接待】 番外建治寺へ廻ったのがよかった。途中の道が心を安らげてくれる。 植村旅館から鮎喰川をダラダラと10Kmほど下り、阿野橋を渡る。 途中、民家の前で奥様から200円のお接待。「お茶でも飲んでください」と。 方子から遍路道を約40分、9:30に建治寺に着いた。 建治寺では岡山の高尾氏に会う。 建治寺から下る途中、足が痛くなる。何度も靴を脱いで足を休ませる。 (このお寺では写経、滝行等させてもらえるらしい) 21号線では両斉藤氏と一緒になった。 【13】大日寺でメシ屋を探すがない。ザックからようかんを出してメシがわりに食べる。 前回もここでメシの準備を忘れ同じ失敗をやらかしている。 【14】常楽寺は自然の岩がむき出しの境内で歩きにくい。流水岩という。 【15】国分寺を過ぎて町のスーパーで即席うどんにお湯をかけてもらって食す。 今夜の宿、うろこ楼に電話でお願いする。 【16】観音寺は町の中にあり、門前も細い道で窮屈な感じ。今は本堂も改装中であった。 今日は料理旅館うろこ楼での泊まり。 料理旅館だけあって料理がよかった。 |
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第5日目 2006.3.8(水) 曇り | |||||||||||||||||
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【義経上陸の地】 目が覚めたら胃ケイレン、激痛。若い頃はこの胃ケイレンで大いに悩んだ。小1時間我慢すると治るのだが・・・。 体をいじめて歩いているのが足とか胃とか肩とかいろんなところに影響してくるのだろう。 今日はとにかくユックリ歩こう。 うろこ楼を出て30分で井戸寺に着く。東京と新潟の両斉藤に会う。 恩山寺の近くには義経が上陸したという処がある。 義経の軍勢が敵がいないことを察知して弓の弦を巻いたという「弦巻坂」、 敵の伏兵を用心して弦を張ったという「弦張坂」を通り過ぎると 川沿いの草原で寝そべっているおじいさんに「こんにちわ〜」「まあ休んでいけや」 で腰を下ろしての雑談中に近所のおじさんがやってきて、そばの枇杷の木の葉っぱを摘んでいる。 「なににするんですか?」と尋ねると おじいさんが「枇杷の木の葉は煎じて飲むと体によい、特にガンにはよい」といって そのことが書いてある本のページを開こうとするがなかなか見当たらない。 「コピーして送るから住所氏名を書け」という。 名刺を渡すと「ほー、清水さんか。おれは青柳清水といって名前が清水だ。」といってくれた。 車道を歩いていると「祝 小松島高校甲子園出場」と垂れ幕を張ったバスが走っていく。 選抜野球ももうすぐか。 お京塚=立江寺は四国霊場の関所の一つで、悪いことをした人は大師のお咎めをうけるといわれています。 その昔、島根にお京という娘がいました。 お京は大阪で芸者をしている時に要助という男と恋仲になり郷里に帰って夫婦になりました。 ところがお京はそのうち長蔵という別の男を作ったのです。 要助が邪魔になったお京は長蔵をそそのかし、要助を殺害し讃岐の丸亀へと逃げたのでした。 1年ほどして追っ手から逃げるためか、それとも罪ほろぼしのためか、二人は遍路となって札所巡りを始めました。 立江寺の本堂の前で二人が本尊を拝もうとしたとき急にお京の髪が逆立ち、鐘の緒に巻き上げられました。 お京は驚き苦しみながら院主に自分の犯した罪を懺悔しました。 するとお京の髪は頭の肉もろともはぎ取られ、かろうじて一命をとりとめました。 二人は犯した罪を悔い要助の霊を手厚く弔ったということです。 お京はここで一生を終えたという。 立江寺では17時からお勤めで18時から夕食、とのことだったのに団体さんが到着しないからとのことで、 結局19時からの夕食となる。 |
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第6日目 2006.3.9(木) くもり | ||||||||||||||||||
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【またまた遍路ころがし】 深夜2時、昨日の胃ケイレンがまた来た。激痛。胃薬を飲む。小1時間苦しむ。 立江寺をスタートして1時間ほど歩くと鶴林寺と太龍寺を結ぶ県道22号線に出た。 ここは通勤自動車の通る道で渋滞している。運転手は毎日のことで慣れたものか、 さまざまな表情が見ているものにとって面白い。 パンをかじっている人、おにぎりを食べている人、お化粧している女性、メールを打っている人さまざまだ。 ローソンがあったのでお結びを買う。 国道で無人のみかん屋のおじさんにみかんのお接待を受ける。 生名というところから約5kmが第2の遍路ころがし鶴林寺。 汗をかきかきふうふう言いながら登りきると、両斉藤氏にまた会う。一度出会った遍路とはなんどもこのように出会う。 鶴林寺から下り坂を歩くと「よくもまあこんな坂道を登ったもんだ」と我が事ながら感心する。 下ったあとはまた登り、第3の遍路ころがし太龍寺。 太龍寺の直前で東京の女遍路山田さんと話しながら歩いた。 3月3日から歩き始めたと言っていた。宿は坂口屋の手前龍山荘だという。
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第7日目 2006.3.10(金) あめ | ||||||||||||||||||
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【忘れ物】 坂口屋から30分で阿瀬比というところの遍路小屋で一休みしてから遍路道に入る。 ここで忘れ物に気がついた。家内が心を込めて作ってくれたあの「無事カエル」を昨夜の宿坂口屋に忘れたのだ。 坂口屋に電話をすると送ってくれるという。自宅へ送り返してもらうことにした。 「無事カエル」を忘れた事に気がついたとたん、足が動かなくなった。一歩の足が半歩分しか出ない。 これはなにかお大師さんからのメッセージなのか? いろいろ考えているとこの先とても不安になってくる。 胃痙攣が起きたり、いろんな疲れも出てきたのでこの際一旦帰ることにしよう。 阿瀬比からこの先また厳しい道になりそう、「お疲れ様 お使いください」と竹の杖が置いてある。 前回はこの付近でノラ犬と友達になり平等寺まで一緒だった。 平等寺ではお参りの遍路は一人もいなかった。 鉦打橋のへんろ小屋で休んでいると女へんろ山田さんに追い越された。 今日は薬王寺に泊まるというのでオイラも薬王寺に電話して宿を取る。 途中由岐へ行く廻り道と薬王寺への分岐があるが、直通道をとった。 薬王寺の門前に着くと本堂まで女厄坂・男厄坂の石段を登る。 厄年=数え年で、男の厄年は25歳・42歳・61歳、女の厄年は19歳・33歳・37歳が一般的だそうです。 特に男の42歳と女の33歳の厄年は四二(死に)三三(さんざん)といって「大厄(たいやく)」で、 その前後の年を前厄・後厄として3年間です。 薬王寺からすぐそばにアカウミガメが産卵に来るという大浜海岸へ行った。 夜、ウミガメが上がってきたら「さわぐな」「ライトをつけるな」「監視員の注意を守れ」等々の注意書きが貼られている。 終日小雨の降り続きでつらかった。山田さんは15時ころ着いたといったのにオイラは彼女よりも1時間も遅れた。 夕食は彼女と話がはずんだ。 明日は一旦帰ると彼女に話すとさびしそうな顔になった。 |
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第8日目 2006.3.18(土) 曇り→雨 | ||||||||||||||||||
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【徳島とのお別れ】 夕べは夢を見た。 「高校入試の場面でいよいよ最後の試験、数学。午後1時からとばかり思っていたのでユックリしていた。 1時が近づいてきたので試験会場へ行こうとすると教室から試験を終えた皆がゾロゾロ出てくるではないか! ・・・12時からだったのだ。結果自分は数学の試験を受けず失敗した。」・・・ なんでこんな夢を見るのかな? なんだか今回の“お休み”を象徴しているようだ。 薬王寺からの再出発。 ここから最御崎寺 まで約85Km、2〜3日間の道のりだ。2泊してゆっくり行こう。 シトシト シトシト降り続く単調な海岸沿いの国道を歩く。 途中の鞆の浦漁港で雨の中散歩しているおじいさんに話しかけたら、 「日本には鞆の浦は三つある、ここがそのうちの一つでここはカツオほかブリとかあがる。」 「長者が多い。」とか聞かせてもらえた。 今日の宿、大安食堂で徳島県が終わる。
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3巡目 旅 日 記 (修行道場) | ||||||||||||||||||||
第9日目 2006.3.19(日) はれ | ||||||||||||||||||||
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【修行道場】 歩き始めて1時間ほどのところに「土佐古道」という案内標識があったので、そちらを歩いてみようと思ったら、 たまたま土地の人がやってきて「お遍路さん、そちらはとてもとても歩けないよ」と教えてくれた。 9時過ぎ、高知県東洋町に入る。いよいよ修行道場だ。 東洋町に入ったところに「日曜朝市」をやっていたのでちょっと覗いてみたら、 お店の人たちが火を囲んで雑談している。商売なんか二の次だ。 「チョット休んでいけや」に腰を下ろすと焼酎のお接待!長閑なもんだ。 昼ごろ国道を歩いているとサルが山から道に下りてきていた。サルまで長閑なもんだ。 現在の高知県は江戸時代は土佐藩と呼ばれていました。 廃藩置県によって土佐藩は高知県へ変わった訳ですが、何故、「高知」と言うのでしょうか? 県庁所在地である高知市には高知城があります。 そして、高知城の南側に鏡川が、北側に江ノ口川があります。 この2つの川に挟まれた城下町、「河内(こうち)」が転じて「高知」になったと言われています。 ただでさえ、水害の多い高知。水害に縁の深い「河」の字を嫌って「高知」と改名したと言われています。 一日中寺なしで疲れた。寒い寒いと思いながら歩いていたが、どうも大風邪を引いたみたい。 クシャミ・鼻水がひどい。宿で薬をもらう。 |
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第10日目 2006.3.20(月) はれ | ||||||||||||||||||||
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【カナディアン遍路】 6時起床。風邪がひどい。疲れがでると風邪もなかなか治らない。鼻水がダラダラ出て止まらない。 鼻紙がなくなる、タオルで鼻をかむ。 鼻の周りがただれて痛い。 スタートして1時間ほどで外人遍路に行き会った。 菅笠をかぶり、白衣を着てまったくのお遍路さんだ。残念ながら全然日本語が話せない。 女遍路が同伴している、がたまたま彼女増田純子さん、英語が出来るのでつかまってしまったらしい。 彼はカナダから来たRon氏57歳という。 彼と彼女に家内の作った「無事カエル」を差し上げた。 面白いことにRon氏、「こんにちは」といえば「こんにちは」と答える。 「おはよう」といえば「おはよう」と答える。 ちょっと先に行こうと思ったので「お先に・・・」と言ったら「お先に・・・」と答えてくれた。 室戸岬の最御崎寺から津照寺へ向かって国道を歩いていると、今度はトンビが写真撮影に応じてくれた。 トンビも長閑だ。 道の駅で昼食をとっていると先ほどのカナディアン遍路Ron氏がやってきた。 15:30に民宿うらしまに荷物を置いて空身で金剛頂寺を往復する。 今日もエンエンと海岸沿いをひたすら歩いた。 風邪で苦しかったが、寺はありRon氏と抜きつ抜かれつで結構楽しかった。 最御崎寺・金剛頂寺の登りはわずか20〜30分とはいえとても厳しく感じた。 |
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第11日目 2006.3.21(火) はれ | ||||||||||||||||||||
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【王ジャパン優勝】 うらしまから歩いていると、自転車遍路が「おはようございます」と声をかけて追い越していく。 お遍路にとって挨拶はお互い本当に気持ちがいい。 吉良川では昔からの民家・文化を保存しようと町あげて取り組んでいる。 昔からのお雛さんが民家の中に飾ってあった。 ここらで川崎の顎鬚遍路田中氏(60歳?)と一緒になる。 奥さんは「18年前にガンで亡くなったので気楽なもんだ、今は何人かの彼女とお付き合いしている」と。 「奥さん、怒って出てきませんか?」とのワタシの問いかけには「ウーン・・・」 2時過ぎ宿の浜吉屋に着くと「王Japan」がキューバと対戦中で9:5とリードしているではないか。 もう勝利は間違いないだろうと、宿に荷物を置いて【27】神峰寺に登る。 途中足にマメが出来て痛いので靴を脱いで手当てをしていると、 埼玉遍路大塚氏(34歳)が針や薬を貸してくれるではないか。 三重の女遍路西山さんもマメ用のテープを貼ってくれた。 みんな親切な人たちばかりだ。 手当てのあと登山途中に家内からメール。 「日本が10:6でキューバに勝って優勝したよ。あなたもお山の頂点を極めてね!」と。 土佐という名称は、「古事記」の中に初めて見える。 神話によるとイザナギノミコトとイザナミノミコトが四国を産んで、 935年(承平5年)には、紀貫之が「土佐日記」を著わした。 |
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第12日目 2006.3.22(水) 曇り→雨→どしゃ降り | ||||||||||||||||||||
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【宿選び】 昨夜の浜吉屋は古い建物でそのうえエアコンと思って電源を入れておいたら冷房機だった。 気がついてスィッチを止め、灯油ストーブを点けようと思ったら、自動点火しない。 マッチで点けようと思えどマッチがない。 夜中のこととて宿の人を起こすのは気が引ける。寒さを我慢して一夜を過ごした。 それで宿賃7100円は高すぎる。 年寄りがやっている宿屋で商売っ気がないのだろう。現状維持が精一杯。 結果論では浜吉屋のすぐそばにもう一軒宿があった。そちらにすべきだった。 名前を覚えていないが、ひらがなの名前だった。 宿選びは絶対に新しい宿を優先的に探すに限る。 建物は新しくて全ての設備が整っている上に、お客獲得に積極的でサービス精神旺盛だから。 今までで気に入った宿=「吉野」「坂口屋」「うろこ楼」「とくます」、「寺の宿坊」なら間違いない。 今日は寺なしでただただ雨の中を歩いただけ。 昨日の寒さで風邪が治らない。 コンビニでメシとともに買うのはウィスキー・焼酎。 途中、抜きつ抜かれつした西山さん・まりちゃんと黒潮ホテルでゴールイン。 |
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第13日目 2006.3.23(木) はれ | ||||||||||||||||||||
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【少年少女】 昨日も風邪で鼻水ダラダラ、鼻の周りが痛かった。 温泉には三度も入った。 まりちゃんと付かず離れず歩き、アレッいない、と思っていると国分寺でお饅頭をくれた。 気持ちの優しい人だ。「これが食べたかったんだー」と言っている。 11時半ころ学校帰りの女の子(さわちゃんという)に声をかけられる。 「おっちゃんどこいくの〜?」「お寺廻りしているの」 「ふーーん、わたし、お寺と神社とどっちがえらいか知ってるよ。お寺でしょう」「へー?」 小学生の女の子と話をしていると心が安らぐ。 無事カエルをカバンに付けてあげた。 14時ころから五台山竹林寺へ登る。ここは山全体が牧野植物園のようだ。 牧野植物園は高知が生んだ「日本の植物分類学の父」牧野富太郎博士(1862〜1957)の業績を顕彰するため、 博士逝去の翌年、1958(昭和33)年4月に高知市の五台山に開園。 ただし、正面から入園すると有料だが、遍路で裏手から登ると無料だ。 禅師峯寺では小学高学年と思われる4少年がお参りをしている。 「なんのお願いをしているの?」と尋ねると「勉強とバスケットがうまくなれるように・・・」という。 生意気にもお寺のお参りの作法、本堂と大師堂、等々話してやり無事カエルをあげると 一斉に「ありがとうございます」と。 男の子も女の子も少年少女は本当にかわいい。 今日は11時間以上働いた。 |
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第14日目 2006.3.24(金) はれ | ||||||||||||||||||||
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【ペギー葉山】 フェリー乗り場種崎から御畳瀬までが「本来の遍路道」として乗り物が公認?されている。 このフェリー、県営で乗船料=0円。 ♪南国土佐をあとにして 都へ来てから幾年ぞ 想い出します故郷の友が門出に歌ったよさ来い節を・・・ みませ みせましょ 浦戸を開けて 月の名所は桂浜 よさこいよさこい・・・♪ 御畳瀬(ミマセ)からペギー葉山の上の歌を思い出し、まりちゃんに話すと彼女、ペギー葉山を知らないという。 そういう年代なのだ。 途中に薬屋があったので花粉症対策に目薬と飲み薬を買い求める。 種間寺を過ぎしばらく歩くと仁淀川の長い長い大橋を渡る。 喜久屋では夕食がなく素泊まりのためまりちゃんと近所の焼肉屋で夕食とする。 宿に帰ってから軽くカンパーイ。
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第15日目 2006.3.25(土) はれ | ||||||||||||||||||||
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【カルパッチョ】 朝、スタートしてしばらくのところで足をさすっている若い遍路がいる。 「いかがですか?」と問いかけると「マメで痛くて昨日からもう歩けない」と。「帰ることにする」と。 塚地峠の登り口ではテントの野宿遍路が二人テントをたたんでいた。 汗をかきかき峠を越え、宇佐の長い大橋を渡り、 【36】青龍寺に着いたらワタシよりあとから出発したはずのまりちゃんがすでに着いている。 途中追い越されたようにも思えないので聞いてみると、道を間違え国道を歩いたという。 距離は短くてもやはり山道は時間を食うようだ。 ビジネス旅館西村では川崎の顎鬚遍路田中氏とバッタリ、同宿となった。 夕飯はカルパッチョがうまかった。 旅館もなにか一点特徴を売り物にするといいんでは・・・。 |
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第16日目 2006.3.26(日) はれ | ||||||||||||||||||||
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【添蚯蚓】 今日は須崎市から土佐久礼〜仁井田〜窪川〜岩本寺と歩く。 途中、遍路道、焼坂峠・そえみみず峠を越える。 添蚯蚓は“そえみみず”と読み、ミミズの如くくねくねと曲がりくねった道のこと。 横に本蚯蚓“ほんみみず”があり、 そえみみずはこのほんらいのみみずに沿った道だから“そえみみず”というらしい。 結構きびしかった。この道最近「関西歩け歩け協会」が歩いたのか、標識がぶら下げてあった。 宿坊では顎鬚の田中氏・まりちゃん・に加えRon氏・増田さん・石坂夫妻 そして千葉の69歳遍路北村氏たちと一緒になる。 宿坊の窓から外を眺めると桜の花が満開ですばらしい。 |
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第17日目 2006.3.27(月) はれ | ||||||||||||||||||||
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【天井絵】 岩本寺では6時から朝のお勤めがある。 住職から岩本寺の説明があり、特に昭和53年に建立された本堂の天井に描かれている575枚の絵についての 苦労話があった。 その絵は400名が参加して仕上げたものでプロからアマチュアまでが洋画・日本画など いろんな手法で描かれなかなか見ごたえがある。 窪川町の【37】岩本寺から足摺岬の【38】金剛福寺まではおよそ90Km。二晩は寺なしの旅が続く。 道端には哀れにもウグイス・ハクビシン?が交通事故で犠牲になっていた。 宿は国道から脇へそれて海岸そばにあった。 国道に建っているホテルの看板は古びていて営業中のホテルの看板とは思えない。 温泉では海を眺めながらゆっくり疲れを流した。 |
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第18日目 2006.3.28(火) あめ | ||||||||||||||||||||
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【四万十川】 ホテルをスタートするとほとんど国道を歩く。何の変化もなく面白くない。 道はコンクリートで足腰への負担が重い。これが修行だ。 土砂降りが来た。 国道の端には動物たちの犠牲者がところどころに横たわっている。 10時過ぎ四万十川に着く。川はいつも美しい。 四万十川で雨のないとき昼寝をしていると顔に雨が当たった。 飛び起きて雨具を着ていると顎鬚遍路の田中氏が目の前を歩いているではないか。 追いかけて久百々までずーっと一緒に歩く。 民宿久百々では千葉の69歳遍路北村氏と相部屋。 宿料金は本来6800円だが相部屋のため500円割引。
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第19日目 2006.3.29(水) はれ | ||||||||||||||||||||
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【足摺岬】 久百々をスタートすると小一時間で大岐浜に着く。 この砂浜1.6Kmをゆっくり歩くのも楽しい。 足摺岬6Km手前にはすばらしい善根宿がある。 野宿遍路には最高のおもてなしだ。トイレは勿論、部屋には畳が敷いてあり、囲炉裏がある。 毛布・洗濯機・炊事場まで完備だ。 どなたかの土地・建物を地域の皆さんでお世話している、大変なご苦労と思う。 ここで昼食を顎鬚遍路田中氏と共にした。 足摺岬は、足摺半島の突端にある四国最南端の岬。 標高433mの白皇山を中心とする花崗岩大地が沈隆と隆起をくりかえし、 長い歳月をかけてできたものです。 岸壁には、荒波さかまく黒潮が絶えまなくうちよせます。 その岸壁にたてば、ゆるやかに弧を描く太平洋はかぎりなく美しく、 高さ80mにもおよぶ断崖絶壁は思わずのみこまれそうに なるほどの迫力。豪快にしてダイナミック。 なぜ「あしずり岬」というか? ・長い長いお遍路の道を歩き歩き、ここにたどり着いたときには疲れ果てて足を引きずっているから。 ・ここは自殺の名所でもあるが、自殺しようと崖の上に立った人が怖さのあまり思わず後ずさりするから。 【38】金剛福寺でお参りを済まして休憩していると、Ron氏が一人で来た。 オイラの姿を見つけるとそばに近づいてきて、宿を探しているという。ワタシの泊まる足摺八扇でどうか? というとやむなしという顔をしてついて来る。 と、足摺八扇の手前にユースホステルがあるではないか!Ron氏に指差すと大喜びの破顔。 夜は田中氏とまた一緒になったので焼酎パーティとなった。 |
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第20日目 2006.3.30(木) はれ | ||||||||||||||||||||
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【打ち戻し】 今日は次の延光寺へ行くために国道321号線を海岸沿いに前へ進むか、 下ノ加江まで戻り山道を歩くか二通りがあるが、顎鬚遍路田中氏と相談の結果、 下ノ加江まで打ち戻ることにする。 窪津漁港でお弁当代わりにおもちを買う。ここの売店、昨日の水曜日は定休日で閉店だった。 空は晴れているが、強烈な向かい風で足が出ない。すごい風だ。 民宿安宿では夕食のときに大阪住吉の女遍路佐藤さんとお話が出来た。 彼女、「月に一度は宝山寺、高野山に参っている」と。 |
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第21日目 2006.3.31(金) はれ | ||||||||||||||||||||
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【基地遊び】 下ノ加江から三原村を通って宿毛市の延光寺を目指す。 途中で21歳の青年遍路とともに歩く。 彼は高松市の天野君といい、この2月まで自衛隊に勤務していた。 鍼灸師になりたいため今その充電中だという。 二人で歩いているとその横を自転車に乗った女の子二人が追い越していく。 「こんにちわ〜、おっちゃんの荷物のせて〜」「いや〜」 「そんなこといわんと〜〜、このリュック重いねん」というと自転車を止めて後ろのカゴの中を空にして、ここへ乗せろという。 「ほんとに乗せてもいい?」「うん」 冗談で言ったつもりが本当になった。何年生かと聞くと今度3年生になるという。 名前は実咲ちゃんと麻衣花ちゃん。 なんだかんだ話しながら歩いているうちにお互い打ち解けてしまって、彼女たちが家へ来いという。 家のそばへ行くと「基地を作って遊ぼう」という。 荷物を乗せてもらったことだし・・・、と思い基地を作って遊ぶ。こうなるともうなかなか開放してくれない。 「こんやは家に泊まって〜」と実咲ちゃんがいう。「そんなことしたらパパやママがおこるよ」 「いいの、お父さんは離婚して家にいないから」「お父さんと一緒に暮らせるといいのにね」 「イヤ!」「なんで?」 「だって、浮気はイヤ!」とんだことで内輪話まで聞くことになったが、土地の子供たちは本当に素朴だ。 延光寺では花粉症で眼が痒いので眼洗井戸で眼を洗う。 延光寺の前の宿はこのしまやとへんくつやがある。 どちらもいまいち・・・。 土佐の修行道場はここにて終了。
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3巡目 旅 日 記(菩提道場) | ||||||||||||||||||||||
第22日目 2006.4.1(土) はれ | ||||||||||||||||||||||
愛媛県愛南町 旅館旭屋 (宿泊料金:7000円)
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御荘菊川を歩いていると女の子がスケーターですいーっと行く。 「じょうずやね〜」というと「どこまでいくの?足痛くない?」と聞いてくれる。 「足、いたいよ〜」と答えると「チョットまってね」といって 家からサロンパスを持ってきてワタシの足に貼ってくれるではないか! お姉ちゃんがハムスターを3匹抱えてきて見せてくれる。 「とっとこハム太郎の歌を歌って・・・」とお願いすると、恥ずかしそうに歌ってくれた。 お姉ちゃんが彩香ちゃん、妹が舞ちゃんという。この二人も「おうちにおいで〜」と誘う。 行きたい気持ちを振り切って別れを告げると「またきてね〜〜またきてね〜〜、やくそくよ」と別れを惜しんでくれる。 なんで土地の子はこんなに純真無垢なのか。 (後日、下のお手紙を頂戴した。)
旭屋でチェックインの最中に竹内君からケータイに電話が入った。「いま、どの辺を歩いている?」と。 「愛媛県に入ったところだ」と答える。 時間がすこし早いので宿の前の町の公民館に入るとパソコンがおいてある。 ワタシのHPを開くと埼玉遍路大塚氏から書き込みがあった。 「清水さま 27番札所神峰寺で御一緒させていただいた大塚です。 足のまめの応急処置をした時に清水様にかけていただいた 「あなたはやさしい人ですねという言葉が本当にうれしくて、今でも耳に残っています。 どうかこれからもご無事で旅を続けられることをお祈り致しております。ありがとうございました。 南無大師遍照金剛」と。 この旭屋、宿は今までの中で最高!部屋は広く部屋の中には風呂・トイレはあるし、 一泊二食8000円のところ遍路には7000円。3階には大風呂もあり、いたれりつくせり、最高! 夕食時にまたまりちゃん、69歳遍路北村氏とバッタリ。 |
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第23日目 2006.4.2(日) ずーっと小雨 | ||||||||||||||||||||||
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東側に堀、西側半分が海により防衛されていたが、現在は堀も海も埋め立てられている。 天守(国指定重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)、石垣が現存する。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。 慶長19年(1614年)伊達政宗の長男(庶子のため嫡子ではない)伊達秀宗が10万石で入封。 夜はビジネスホテルで素泊まり近くのスーパーで晩飯を買ってきてのわびしい食事。 |
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第24日目 2006.4.3(月) はれ | ||||||||||||||||||||||
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明石寺では大阪住吉の佐藤さんにバッタリ。後日、彼女も掲示板に書き込みをしてくれていた。 「民宿・安宿でお会いし私は足摺岬へ、漫歩マンさんは39番延光寺へ。 そしてまさかの再会43番明石寺で・・、あの時は驚きました(北海道のおばさんもいましたね)。 足手まといの私をこころ良く宿まで同行して頂きありがとうございました。 そして奥様が作られたかえるさんのキーホルダー有難うございました(早速リュックに付けました)。 あの後(4日)十ヶ夜橋に立ち寄りその日の内に大阪へ帰りました。どうかご無事で結願されます事を祈ります。 ガンバレー漫歩ま〜〜ん!(四国歩き遍路は癖になりますね(笑))」と。 宇和パークでは千葉の69歳遍路、まりちゃん、佐藤さんと一緒になった。 |
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第25日目 2006.4.4(火) 曇り→雨 | ||||||||||||||||||||||
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大洲城を過ぎ内子町に入ったころ自転車の外人遍路Sam氏と話した。 「こんにちは。どこから来ましたか?」「イギリスからです」 内子橋の道の駅から堺の木村氏、東大阪の弓仲さんと一緒に歩く。 午後からはずーっと雨の中の行軍。ふーっ疲れた〜。 愛媛県に入ってからピンクの花がよく目に付く。 弓仲さんが枝垂れ桃だと教えてくれる。彼女、いろんな花の名に詳しい。 |
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第26日目 2006.4.5(水) 雨 | ||||||||||||||||||||||
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【最高の遍路道】
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第27日目 2006.4.6(木) はれ | ||||||||||||||||||||
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宿を出発してしばらく歩いていると前から順打ちのRon氏と行き会った。今晩の宿はどこかと尋ねたが未定とのこと。 日本語が出来ないのによくやるよと感心する。 太宝寺の参拝を済ませ三坂峠で昼食を終え、歩き始めようとすると弓仲さんが追いついてきた。 「まってえ〜」の声に並んで歩いていると、 車のお接待、「乗っていきませんか?」に弓仲さん「どうする?」とワタシの顔を見る。 ワタシ一人だとお断りしていると思うが、弓仲さんに任せるというと 彼女「お願いします」との返事で車に乗せていただくことになった。 車のお接待さん、46番47番48番のお参りをしている間待機してくれている。なかなか出来ないことだ。 48番でありがとうのお別れをして49番浄土寺。 浄土寺では奥の院に牛峯山88ケ所がある。 たかのこ温泉は道後温泉よりも泉質が良いとは土地の人の評判。 弓仲さんと夕食を共にする。 |
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第28日目 2006.4.7(金) はれ | |||||||||||||||||||||||
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道中椿が咲いている。 弓仲さん、菊の花・椿の花から人の散り方を話してくれる。 「椿の花の散り方はどこかに病が出るとコロッと散るが、 菊の花の散り方は一つ二つの病くらいでは粘り強く全ての花びらに寿命が来るまで散らない」と。 ワタシはコロッと逝きたいね。 石手寺では大仙窟巡り、西国33箇所巡りが出来た。 石手寺=奈良時代に国家領護の道場として建立した石手寺は、 四国霊場の第51番札所で、「お大師さん」として松山市内の善男善女から崇敬されています。 現在残っている本堂、仁王門、三重の塔は鎌倉時代のものです。 作られた時は安養寺と言っていましたが、衛門三郎の物語以降、石手寺と改められたそうです。 この衛門三郎は四国遍路の元祖といえる人です。
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第29日目 2006.4.8(土) はれ | |||||||||||||||||||||||
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そのうえ「欲しかったら好きなだけもって行け。トラックで持って行ってもいいよ」という。 せがれさんがサラリーマンになって後を継いでくれないから廃園にするんだという。さびしい話だ。 ホテルでは素泊まりのため町へ食事に出た。 風呂はラジューム温泉。 |
第30日目 2006.4.9(日) はれ | ||||||||||||||||||||||
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栄福寺では明石寺で足を痛めていた北海道の女遍路とも会う。彼女、足を引きずりつつタクシーで廻っているとか。 栄福寺から仙遊寺まで距離は短いが、それなりに厳しい遍路道。やっと山門に着きホッとしたらこの先がまだ厳しい。 国分寺では「前の寺の納経を忘れた!タクシーで行ってもらってきます」というお遍路あり。 宿ではまた堺の遍路木村氏と一緒になり「明日条件がよければ石鎚山に登ろう」と約束する。 |
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第31日目 2006.4.10(月) 雨 | ||||||||||||||||||||||
西条市西田甲 石鎚温泉 (宿泊料金:4300円)
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第32日目 2006.4.11(火) 雨 | ||||||||||||||||||||||
本日の歩行距離=4.7Km |
体の調子が思わしくないのでゆっくりしようと遅くに宿を出た。 宿の目の前に前神寺はある。雨の中でお参りするもどうも体が変調だ。 胃が重い。吐いた。吐いた。体がゾクゾクする。フシブシが痛い。
駄目だ!帰ることにする! せめて65番三角寺を終えると菩提の道場がおしまいなのに・・・。 自宅に帰ってから後日、鎌大師の西山明応様から下記のメールを頂戴した。 「鎌大師・めいおうでございます。 横峰寺では大変でしたこと、お察し申し上げます。 申し訳なく思っております。 快晴の中での巡拝であれば、素晴らしいものなのですが、 大雨であれば、ご自分の身体、また生死に関わる場合もありますので 誠に申し訳なく、思っております。 反面、今回はお大師さまより、断念する様にお導きがあった。 大難は小難になったのだと思って、次回を楽しみにしてください。」と。 あとはまたのおたのしみ〜〜。 |
3巡目 旅 日 記 (涅槃道場) | ||||||||||||||||||||||||||||||
第33日目 2007.4.11(水) はれ | ||||||||||||||||||||||||||||||
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【再出発】 昨年の4月11日体を痛めつけられて悔しい思いで敗退・断念した。 1年たって根性の再スタート。 今日は石鎚温泉に泊まるだけの予定なので、ゆっくり家をスタートした。 なんばからの高速バスは乗客13名。 そのうち女性遍路が一人乗っていた。彼女、鳴門西停留所で降りた。 JR石鎚山のすぐ近くに64番前神寺があり、今回の旅の無事を祈る。
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第34日目 2007.4.12(木) はれ | ||||||||||||||||||||||||||||||
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【番外一寺のみ】 朝風呂に入ってすっきりして宿を出る。 国道11号線を新居浜に向けて延々と歩く。 番外【12】の延命寺では大東市から来た山本氏という遍路と話す。 同じ宿に泊まったらしいが彼は朝飯なしで早くに出たそうだ。 途中で財布を宿に忘れたので引き返したと言っていた。 伊予三島に入ると今は「四国中央市」となってるが、なんとなく色気のない感じ。 宿のビジネスホテル京極では工事関係の人で満員。 洗濯機は彼らでフル回転のため宿の主人に言うと「うちの洗濯機で洗ってあげましょう」といって洗ってくれた。 自分でやれば200円要るところなのに、工事関係の人には内緒のただ。
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第35日目 2007.4.13(金) くもり | ||||||||||||||||||||||||||||||
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【涅槃の道場入り】 きょうから讃岐・香川県涅槃の道場入りだ。 朝飯を食っていると宿の奥さんが「お接待でおにぎりを作っていますからね」と言ってくれる。 何も頼んでいないのにやさしいね。こういうお宿は遍路の心を癒してくれる。 三角寺にはさすが坂道、桜吹雪が苦しさを飛ばしてくれる。
椿堂からはゆるやかな下り坂をしばらく行くと徳島県に入る。 雲辺寺は涅槃の道場ではあるがこの寺のみ徳島県所在なのだ。 今日のお宿は雲辺寺ふもとの宿「岡田」にしようと思っていたが満員のため「白地荘(ハクチソウ)」を紹介された。 白地荘は岡田まで車の送迎つきだ。 6年前おじいちゃんの代から変わって増築して頑張っていると女将が言っていた。 |
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第36日目 2007.4.14(土) くもり | ||||||||||||||||||||||||||||||
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【雲辺寺】 白地荘(ハクチソウ)から雲辺寺の登山口まで10Km以上ある。 女将は軽自動車で客3人をその登山口まで送ってくれる。 天気予報は雨とのことであったが、ありがたいことに予報ははずれた。 登山口からはじめの40分は強烈な急登、汗をふきふき登る。夫婦ずれが休んでいる。 1時間も歩くとなんだか「ゴーゴー」という音が聞こえる。 「まさか自動車が走っているわけでもなく、なんだろうなあ?」と思っていると上を高圧線が走っている鉄塔が見えてきた。 電線の下はすごい音がするもんだと改めて知った。 今までの急坂を上ったせいか、このあたりからダラダラの登り、「らく」に感じる。 この鉄塔から寺までおよそ2.5Km 。 登山口から2時間足らずで【66】雲辺寺に着いた。 当寺のご詠歌「はるばると 雲のほとりの 寺に来て 月日を今は ふもとにぞ見る」は本当にそんな感じ。 この寺の境内にある五百羅漢の石像は見事なものだ。 なお、石鎚山は前神寺とこの雲辺寺の奥の院とのことである。 是非一度は極めたいものだ。
大興寺からは平坦道を歩くがさすがに雲辺の登り下りで足が棒になっている。 お遍路休憩所で脚休めをしていると通りがかりのオジさんがお賽銭のお接待。 町の雑貨店に飛び込んでパンを買ったら、もう一個のパンをお接待。 【68】神恵院(ジンネイン)【69】観音寺は並んでいるので納経はすぐ済む。 観音寺の町通りを本山寺に向け歩き、途中のビジネスホテル観音寺で宿泊。 |
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第37日目 2007.4.15(日) くもり | ||||||||||||||||||||||||||||||
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【台湾の夫婦】 昨夜はビジネスホテルの素泊まりのため近くのすし屋で晩飯、今朝は近くのコンビニで朝飯のパン。 ホテルから30分も歩くと弘法大師が一夜で建立したといわれる【70】本山寺。 客殿が修復したとかで10時から落慶の法要が予定されたいた。 【71】弥谷寺は強烈な階段。登ったと思ったらまた108段の階段。 台湾人の観光ツアーもフーフーと登っている。 そのうちの一組の83歳81歳の夫婦と話した。 「毎年一国づつのお遍路に来ている。今回4回目だ。戦前には日本人教育を受けた。三井物産に勤めていた。」 「毎年東京で同窓会があり毎年日本に来ている」等々上手な日本語で話してくれた。 【75】善通寺には弘法大師が生まれた時から千数百年を経て楠木が今も繁茂している。
予約したのにおかしいな? 宿について分かった。おばあさんがひとりで旅館をやっている。「しばらく休んでいたが最近また始めた・・・」と。 宿賃8000円は高い。近くにはここしかないから仕方ないか。 |
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第37日目 2007.4.16(月) あめ | ||||||||||||||||||||||||||||||
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【崇徳天皇】 今日はうっとうしい雨。 雨の山道でなく市街地の平坦道なので助かる。 【79】天皇寺の隣には崇徳天皇を祀っている白峯宮があるが、天皇陵はここではない。 明日の【81】の白峯寺の隣だ。
大丈夫かな?と思っていると近くに住んでいるという甥が通いでお手伝いをしている。 「定年になったときにこの旅館を始めた、現金収入が魅力だったが、今はさっぱりだ・・・」と。 |
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第38日目 2007.4.17(火) はれ | ||||||||||||||||||||||||||||||
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【崇徳天皇陵】 旅館をスタートして最初の1時間余が厳しい。 途中、夫婦連れに会い「どちらから?」と尋ねると「ハワイから・・・」との返事。定年後永住しているそうだ。 日本を飛び出た人でも遍路はしたいのか? 寺の直前の山道には写真の「下乗」の石碑。 こんな山道を乗り物で登ったエライさんがいたのだ。カゴといわずともせめて馬にでも乗りたいね。
奈良や京都の天皇陵はきれいに掃除されているがこの陵は手入れが少し足りないように感じる。
宿まで5時間半歩いた。つかれた〜〜。 「天然温泉きらら」は今日は月一の定休日。「温泉には入れないが泊まりだけならいいですよ」ということで泊めてもらったが、温泉とは別棟の4階建ての立派な建物。聞けば元はどこかの社宅を泊まり部屋に改装したそうで きれいな上に立派な調度。 |
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第39日目 2007.4.18(水) くもり・あめ | ||||||||||||||||||||||||||||||
旅館栄荘 香川県大川郡志度町中浜 087-894-0029 (宿泊費:7180円)
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【源平合戦】 今日は温泉は朝6時から営業している。一番風呂にゆっくり浸かって気分爽快でスタート。 天然温泉きららのすぐそばに【83】一宮寺があるが昨日は疲れていたので参拝する気になれなかった。
この島では源平合戦で戦いに勝った源氏が陣笠を投げて勝ち鬨をあげたとの言い伝えに習い展望台からの「かわら投げ」が有名。 源平合戦の古を思いながら島を一周したので余計疲れた。 栄荘では「栄荘がいいそうですよ」と教えてくれた栃木の石原さんと一緒になった。
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第40日目 2007.4.19(木) くもり | ||||||||||||||||||||||||||||||
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【結願】 昨日女遍路の石原さんに評判がいいと教えてもらった栄荘は良心的なお宿だった。 宿から1時間半ほどで【87】長尾寺に着く。 本堂は修理中だった。 いよいよ最後の大窪寺へ・・・。 前回は女体山コースを歩いているので今回は旧遍路道を歩くことにする。
昨日の石原さんご夫婦にここでも会いお互いたたえあってお別れした。
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